幼い頃に見た夢を思い出す方法

雑記
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どこで生まれた赤ちゃんも産声はAの音というファンタジー

初めてこの説を聴いた時「そうだったんだ、すごい!」と一瞬思ったのだが

すぐに、そんなことありえないと思った。

生まれる週数によっても差があるし、声帯には個人差がある。

出生体重によっても響きが変わってくる。

何より、声の周波数なんて一定ではないだろう、泣き始めと終わりでは周波数は

容易に変わるだろうと思ったのである。

 

自ら泣く赤ん坊

ところで、赤ん坊は良く泣く。赤ん坊はなぜ泣くのだろう。

一般的には空腹やおむつが濡れ、不快を感じて泣いていると思われる。

そして、誰か大人がその不快を取り除いてあげる事で不快感はなくなり、泣かなくなる。

赤ん坊は泣きたくて泣いているわけではないけど、自分で泣くことを選んでいる。

大人の様に、無理をして笑顔になる事もない。

本能と感情と表情に膜はないように思える。

 

大人はいつからかマスクをする事を獲得する

大人は本能と感情と表情を分ける事ができる。辛くて悲しく泣きたくても、泣かずに頑張ったり、

舞い上がるほど嬉しくても、それを悟られないようポーカーフェイスを作りやり過ごすことだってできる。本能的欲望が渦巻いていたとしても、涼しい顔をしてコーヒーを傍らにスタイリッシュに読書をしているフリをすることもできる。

 

大人が裸の赤ん坊になる時

映画や音楽を聴くと涙が流れる事がある。映画の場合は、物語の設定や登場人物に感情移入して、感情が揺さぶられて泣く。こちらは論理的に了解可能である。しかし、理由が分からず不意に涙が流れる事がある。自分の場合は、好きなアーティストのコンサートに行ったときによく起こる。

歌詞の内容に感動して泣く場合もあるが、理由が分からずに泣く経験は、歌詞の内容如何に関わらず何かが起こっている様である。

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子供時代に父親に虫取りやキャッチボールに連れて行ってもらった覚えはない。友達の父親は休みの日は子供を遊びに連れていき、楽しそうだった。テレビドラマの中の父親も自分の中の理想として刻まれていた。 こども銀行こども店長 うちにはこども銀行が...

涙を流す事は能動的か受動的か

2002年に行われた、夜会Vol12「ウィンターガーデン」は僕が初めて参加した夜会なのだが、その中で歌われた「六花」の時に涙が流れた。夜会とは中島みゆきのライフワークともいわれ、自身が主演、演出、作詞、作曲、構成等多くが関わった演劇仕立てのコンサートで、中島みゆき自身が「へんなコンサート」と称している事もあった舞台である。

これは初めて生で見た夜会だったので話はちんぷんかんぷんであった。座席も最後尾で出演者も豆粒の様にしか見えなかったのだが、最後の方で歌われた「六花」で涙が止まらなかった。

また、2008年に行われた夜会Vol15「夜物語 元祖・今晩屋」の「十二天」でも、同じように涙が止まらなかった。

この曲の歌詞は固有名詞の羅列であり、感情を揺さぶられる要素はあまりないと思われる。

物語の内容に感動をして泣いたというわけでもないのになぜ涙が流れたのだろう。

刺激に反応して涙は受動的に流れたのか、それとも、刺激を受けて自ら涙を流したのだろうか。

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赤ん坊頃の夢

夢の中で涙を流している事がある。何かに追いかけられて恐怖を感じる夢もある。夢の中は感情であふれている。夢には現実離れした情景が浮かび上がってくる。
「へんな遊園地」や「へんな水族館」が出てくる事もある。しかし、夢の中で自分の感情に嘘をつく事はできるのだろうか。嘘をつけない赤ん坊はどんな夢を見るのだろうか。赤ん坊の頃はどんな夢をみていたのだろうか。

手掛かりは涙

「幼い日に見た夢を思い出してみないか」と「最後の女神」では歌われているが、赤ん坊の頃の夢はどのように思い出す事ができるのだろう。
今となっては手掛かりは不意に流れる涙だけなのかもしれない。

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