幸せは相対的に感じるものなのか

雑記

この世界の片隅には戦時中の日常が自然な形で描写されていた。

戦時中は特別な状況なのかと思っていたが、そこにも人々の暮らしがあるのだ。

いや、人々の日常の中に戦争が侵入してくるのかもしれない。

しかし、戦時中であっても所々で小さな幸せを感じている描写があるのが印象的だった。

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お手玉の数え歌の思い出

子供の頃、祖母の家に行くと祖母が手作りのお手玉でよく遊んだ。

そんな中で祖母がよく歌っていた数え歌が耳に残っている

「一列談判破裂して、日露戦争始まって
さっさと逃げるはロシアの兵、死んでも尽すは日本の兵
五万の兵を引き連れて、六人残して皆殺し
七月十日の戦いは、哈爾浜(ハルピン)までも攻めはてて
クロバタキンの首を取り、東郷大将万々歳」

小さい自分には意味も良く分からなかったが、祖母に口伝されたこの歌は

結構過激な内容だったことに驚かされる。

祖母はよく、「日本は1等国だったのに、4等国になってしまった。」と述べていた。

日本は世界で一番強い国だと教育され、確信されていた様だった。

祖母も子供の頃からこの歌で遊んでいたようだ。人々の暮らしや遊びの身近に

戦争はあったようだ。

 

本当に食べ物がない時代

祖母が言うには食べ物は本当になかったという。芋を少しと野山に生えた雑草を入れた汁をよく食べていたという。戦時中、配給制だった時も配給だけではとても足らなかったようだ。

闇市で着物を売って食料を買っていたと言っていた。時々食べられた白米はご馳走だったという。

先生は絶対的な存在であった

祖母の話では、当時は先生は絶対的な存在であり、逆らう事はできなかったという。また、体罰は日常茶飯事であり、教師は恐れられ崇められていた様だった。

当時は教師になる事は非常に難しかったようだ。祖父は勉強ができたため、師範学校への進学をすすめられたが、経済的な理由で諦めたという。祖父は今も健在で現在は非常に優しいが、僕が子供の頃は非常に茶碗の持ち方や食事の姿勢などに対して厳しかった記憶がある。祖父が教師になっていたら、厳しい教師になっていただろうか。

 

70年前のタブレット

教師を諦めた祖父は国鉄の職員になった。当時は蒸気機関車が主流で、石炭を窯に入れる職員から運転手まで多くの職員がいた。祖父は出来が良く早くに運転手になったようだ。国鉄から民営化され、祖父は運転手から、若手を指導する教官の役を務めた。その後、花形の新幹線の運転手になる話もあったようだが、出張が多くなり家に帰る時間が少なくなるため辞退したらしい。

最近祖父と話していて、何かの話から昔は運転手はタブレットというものをやり取りして追突するのを防いでいたと述べていた。単線では、タブレットを持っている電車だけが、発車通行できるという仕組みだったらしく、それを聞いてとてもびっくりしたのを覚えている。タブレットと言えばipadなどを真っ先に思い浮かべるが、70年前は鉄道用語として使われていたという事に驚いた。鉄道博物館などに行けば実物がみられるかもしれない。

祖父は現在も健在で90を超えているが元気である。田舎から出てきた祖父は国鉄に入り、鉄道員になった事は自慢で、いつも鉄道の話を誇らし気に語っている。いつの時代もどんな状況でも前をみて、幸せを感じながら生きてきたんだと感じる。祖父はまだ元気なので、元気なうちに、もっとたくさん話をききたいと思う。

僕が90歳になったら昔をどんなだったと語るだろう

祖父母は昔は大変な時代だったという。食べるものもなく、戦争が身近にあり、本当に大変な時代だったのだと思う。現代は、高齢者に優しく若者に厳しいと言われるが、この様な苦難の時代を生きてきた人達なのだから、今を安らいで過ごしても良いのではないかと思う。

僕が90歳にまだ生きていたら、その時の後世に何を語るだろうか。昔は食べ物も沢山あって幸せな時代だった、というだろうか。それとも、今よりも良い時代になり、昔は辛かったと語るだろうか。

物質的な豊かさの一方、ストレスでの不調や、引きこもりなどが多い現代。皆、心の豊かさと余裕があって、多くの人々がそれぞれ幸せを感じられる将来が来たらいいなと思う。

 

 

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