医療者が治療以外の事を指導するのは許されるのか

雑記
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田舎道で出会った子供たち

旅や出張で地方に行くと、あぜ道ですれ違う子供が元気に挨拶をしてくれる事にしばしば遭遇する。そんな時微笑ましさや懐かしさを感じ、都会では見られない習慣だと思った。普段殺伐とした都会で生活しているとこの様な光景に温かみと純粋さを感じ微笑ましくなる。

台湾で感じる懐かしさの正体

台湾は昔の日本の様で、どこか懐かしいといわれる。台湾では食堂で食べ物が運ばれてきたとき、お金を払った後、お客さんが必ず「謝謝」という姿が見られる。また、バスから降りる時も、運転手さんに向かってほぼ全員「謝謝」という。あぜ道で感じた微笑ましさと同じ感情が芽生えた。日本でも、食堂で「ごちそうさま」バスでも「ありがとう」という人も偶に見かけるが、無言の人が多い様に思える。

 

挨拶をする事は誰もが認める善行であるというのは本当か

挨拶をする子を微笑ましく思い、立派だと感じる。これは僕も含めて大多数の人が思う事なのではないかと思う、しかし、挨拶をされる事が煩わしいと感じる人もいるだろう。このご時世、知らない人に挨拶をして無用なトラブルに巻き込まれるリスクを考え知らない人と話してはいけないと教える親もいるだろう。

学校で掲げられている「元気に挨拶をする子」という教育目標も、なぜそれが善行なのかどうかは突き詰めて考えると分からなくなる。

 

入院患者さんに対する悪意のない善行の押し付け

以前、ある病院で「今日は終戦の日なので全員で黙祷をしたいと思うんです」と言ったスタッフがいた。僕はそれに対して違和感を感じた。

治療する場所である病院で治療以外の事を促していいのかという問いを常に持っていた。確かに病棟では、クリスマスパーティーやハロウィンなども催しものをやる事はある。もちろん、自由参加であるが、このようなイベントはもはや大衆的なイベントとなり、病棟のイベントでも、ゲームをしたりケーキを食べたりをするだけなので、宗教性はあまりない。

しかし、「黙祷」とは一体何をする事なのだろうか。ただ目をつぶって1分間うつむいていればよいのか。先の大戦で命を落とした人達への哀悼の意を唱えればよいのだろうか。または、70年間平和でいられたことへの感謝の意を述べ、不戦の誓いを立て、平和国家が永久に続く事を祈ればいいのか。

人によっては、黙祷は馬鹿げているとか、戦争は必要だなどと思う人もいるかもしれないし、戦争で肉親を失い、もう戦争に関する事を思い出したくないと思っている人は黙祷などしたくないと考えるかもしれない。

様々な事情があるかもしれない状況の中で、治療の場である病院で一律に黙とうをすることに違和感を感じたのだと思う。

また、それ以外にも、医療スタッフは生活指導を行う場合がある。これはもちろん患者さんの自立を願っての事であり、時に母親の様にスタッフが指導する事がある。しかし、立ち止まって考えてみるとそもそも医療者は委託された治療を行う存在であり、それ以外の生活への小言を言う権利なんてないのではないかと思う。一方で、生活指導がなければ昼夜逆転をし、部屋は散らかってしまい、自立を目指す患者さんにとっては、この様な指導は本人のための愛の鞭であるという意見も尊重できる。

この問いに自分では答えが出ていないが、患者さんに何か指導する時は常に謙虚であり、客観的にその指導が治療上必要か、適切かを問い続けなければいけないと思うのである。

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人が空想、妄想する権利

妄想は病気の症状であるが、病気がない人でも自由に空想をする事がある。夢の中ではありえない事、いけない事を考える事もある。日本では思想の自由、表現の自由が認められており、他者へ迷惑をかけない限りは自由である。もちろん、妄想により、生活が困難になったり、他者との関係性が悪くなったりして本人が困っている場合は治療の対象となるが、原則本人が困っていなければ治療の対象としない事もある。

医療者特にメンタル領域の専門職には、様々な考え、思考がある事を受け入れ、一つの画一的な規則や文化を押し付けてはいけないのではないかと思うのである。

また、医療者だけではなく、現代社会では多様な考えや思考を持った人達が存在している。多数派の考えや、日本の伝統的な行いなのだから、正しいといった思考からは一度自由になり、誰もが嫌な思いをしない、多様性を認め合える社会が理想なのかと思う。

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